懐かしの空メールボタンは健在だった(極めて内輪受けなタイトルで失敬)

今日は9月11日だ。あれから15年。時というものは確実に過ぎていく。
でも、思うのだ。
あの日は終わっていない。
何かが始まって、そのまま継続している。
メビウスの輪のような、ループの中に
この日はあるんじゃないだろうか。

あの日、新しい仕事に就いて、仕事の配属先がワートレで、
出勤したらテロに巻き込まれたという息子さんを持った家族が、
当時ワタシが住んでいたブロックにいた。
あの日、たまたま出張していて、テロに巻き込まれたという方もいた。
自分の働くフロアを境に生存率がガタ落ちだったのも認識しているし、
いつもトイレですれ違う人が、亡くなった方に含まれていたのも知っている。
命からがら、ひたすら自分の足で避難してきた同僚もいるし、
彼女がこの経験と長い歳月をかけて向き合い続けているのも知っている。

9月11日は、たくさんの方が命を落とした日で、
自分も含めたくさんの人の人生が変わった日であり、
普通の秋の1日として数えられなくなった、そういう日だと思ってるし、
今日という日は、冥福を祈る日、そして
生きていること、生かされていることの意味を噛み締める日だと思ってる。

http://nikki.mmkmmk.com/911.html

当時の日記には、日記猿人の時に使っていた空メールボタンがついたままだ。
流石に、日記猿人の読了ボタンは取り去ってあるけれども(笑)。
さっき自分で自分に空メールを押してみた。
ちゃんと届いた、当たり前ながら。

当時を真似て、この投稿に空メールボタンつけてみました。
押してみたい方は「ぽちっ」と、どうぞ。
でも、機能するかは保証しません。おほほほほ。
(機能したとしたら、あなた様の端末のデフォルトのメーラーが立ち上がるはずです。
MacならMailとか、PCならOutlookとか。Webメールは反応しないと思います。)

長い一日

updated (7/21/2022)

HPの引越に伴って、nine one oneの記事をブログに移すことにした。記念に、HTMLでHPを作っていた時の名残として、そしてあの日の感じをどこかに漂わせたかったから、スクショを撮ってみた。この記事は、色々な意味での人生の分岐点のようなもので、やっぱり忘れてはいけない、覚えておかなくてはいけないことだと思っている。

いつも読んで下さっている日記のページからリンクをクリックして訪れてくださった皆様へ

feel.write.readから2001年9月13日に書いた部分を独立させておくことにしました。これがワタシの2001年9月11日、同時多発テロのあったあの日です。

この日の日記を独立させた理由を正直に言いますと、明らかにこの経験を通して、ワタシの中で何かが変わり、その変動、強いシフトに自分が押されているような、そんな心境に現在あります。その見えない力の源を自分なりに意識するため、自分の立ち位置を意識するため、もう一度読んでみようと。

今日は、2002年3月2日(土)、時刻は夜中の12時を回ったところです。明日のワタシに何が起こるか、半年後のワタシがどうなっているか全くわかりませんが、どうなっていても、ここに終わりではなく、なんだかの新たな始まりがあることを刻んでおきたい、と思いました。

サーチエンジン等で偶然見つけて訪れてくださった皆さまへ

はじめまして。麻美子です。ここの書かれているあの日の話は、ワタシの日記の中からの抜粋になります。つまりは、あの日を体験した人々の全体の何千人分、何万人分の一であるワタシの11日です。極めて私的に書かれている文章なので、登場してくる人にぴんとこないこともあると思います。ごめんなさい。でも、フィクションではないということを由として読んでいただけるのなら有り難いです。

麻美子より。

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長い一日

ワタシはいつも通り家を出て、NewarkからPATHに乗って職場のあるワールド・トレード・センターまで。電車の中では何も変わったこともなく、頭の中ではオフィスに入る前にバナリパでディパックを買おう、なんて考えていて、色は何いろにしようとか、そういう他愛のないことでいっぱいだった。

8:45 ハイジャックされたアメリカン航空11便がNorth Towerへ衝突

8:50前にワールド・トレード・センターに到着。コンコースB2レベルのホームに降り立った時、ふと変だとは思ったのだが、何がどう変なのかが把握できなかった為、いつも通り階段を上ってコンコースB1レベルに出た。構内に、自分たちの乗ってきた電車の乗客しかいないことに気がつき、ん?金曜日じゃないのに空いてるな、今日って祝日かな?と思いながら改札を抜けると、背後から駅員の声がして急いでエスカレーターを上れ、上ったら外に出ろと指示が。歩きながら半信半疑でエスカレータを上って行き1Fレベルに出た。一番直ぐ傍の出口へ(ワートレ地下の辺に明るい方へ:Coachが角にある通路)向かう途中、ぱっとOne World(North Tower)の方を見ると煙がいっぱい立ちこめていて、コンコースにあるお店というお店が閉まって無人と化してた。ワタシの乗った電車がワートレに入ってきた最後の電車だったとわかったのはこの時点。

地上に出てから、やたらと書類やら何やら紙が舞っているのを見て、上を見上げることに一瞬躊躇したものの、やはり見上げた。火が噴いてた。丁度自分のオフィスのある79階当りだ。移動して、近くの小さな公園(リバティー・パーク)に居る人々の中に混じり、携帯でサンフランに出張中のボスやマンハッタン内の駐在員、自宅など片っ端から電話をかけてみる。全く繋がらない。

9:03 ユナイテッド175便がTwo Worldに激突、炎上

暫らくして爆音がし、Two World(South Tower)の中ほどから上が炎上。爆音を背に、とにかく南に逃げよう、逃げなくちゃ、この場に居てはいけないと公園の横の道を南に走った。同じように逃げ出す人は沢山いたが、ワートレ界隈の小さいビルに仕事場があると思われる人達のなかには、まだ火事見物を続けている人がかなりの数いた。

灰なのか、ビルの破片なのか分からない、丸い小さな石のようなものが髪に、洋服に纏わりついてきた。紙の燃え滓なども混じっていて、吸い込んだらよくないと思い、タオルを口に当てることに。South Street Seaportまで辿りつき、ベンチに座って携帯で家に連絡をつけようと必死で掛け捲ったが、やはり繋がらない。他の人も繋がらないようでイライラしていた。

9:26に自宅に電話が繋がった。だが生憎留守電になっていたので、自分は無事であること、これから暫らく電話の連絡はできないかもしれないから、でも心配しないように、ラインがまったく繋がらないのでワタシから次に連絡を入れるまで携帯に連絡いれないように、と残して切る(後から分かったのだが、丁度このときに実家から電話が入り、ワートレが大変なことになっていると彼が知った時で、テレビの映像のリプレイを見てヒステリカルな状態になっていたらしい)。

そのまま30分程、Seaportで携帯で連絡を方々に取る努力をした。10分に1回ぐらいの割合でしか繋がらず、彼を含めて3人連絡をとるのが精一杯。一番連絡をとりたい、絶対にあの時間社内に居ただろう同僚には、勿論繋がらないし、他の会社に勤める友達にも繋がらない。その間、なんでSeaportのフェリーを出さないのかと抗議する人や、イマイチ状況が分かっていない人が冗談などを言い合う光景など様々で、不思議な気持ちになる。10時ぐらいだったろうか。誰かがTwo Worldを指差し、崩れるぞ、ここは危険だと声をかけ、丁度やってきた警官にSouth Seaportから離れるように、South Streetを東に上るように指示され、集団避難が始まる。

10:05 Two Wordが崩れる

避難する輪から離れてはいけないし、止まってもいけないと思い、黙々と歩き続ける。数分後にインド人の若者がワタシを追い越して歩いていった。彼の耳から後ろ半分の体に煤がいっぱいで、爆風にさらされたのが分かった。きっと南に向かって逃げているときにビルが崩れたに違いない。後ろから走ってくる車にも煤がいっぱい被さっていて、事の深刻さに更なる現実味を加える。

South StreetはFDRの下に位置し、Brooklyn Bridgeの下も通る道。ワタシは、もし次ぎにアタックがあったら、橋が標的になる可能性は高いから、早く橋やハイウェイの下から出たい、出たい、出たい、とココロで繰り返して、歩きつづけた。Two Worldの爆発以降、ワタシの頭の中には常に、またどこかが爆発、アタックさせるかもしれないという恐怖心でいっぱいになっていた。

10:28 One Worldが崩れる

川沿いのEast River Parkでは犬を散歩させる人やテニスをしてる人、ベンチに佇む人、道路工事を続ける人など、今何が起こっているか認識していないだろう人がまだまだいた。こんなに沢山の人が歩いて避難しているのに、それでもテニスを止めない人には一瞬目を疑った。途中で、車からラジオのボリュームを上げて皆に聞きかせている人がいたので、立ち止まりニュースを聞きいた。ここで、ペンタゴンもやられたこと、そしてツインタワーが完全に崩壊したことを知った。

Avenue Cだと思うが、丁度、FDRの下を逃れられそうだったので、ここで北へ進路を変え、どこでどう曲がったのか覚えてないけれど、3番街と25丁目の近辺まで辿りつく。ここで某新聞社に勤める英子ちゃんに連絡をとったのを覚えている。そのときに、どこにこれから移動するのが利口なのか話をしたような気がする。

11:26 ユナイテッド93便がピッツバーグ付近で墜落

英子ちゃんとの電話を切った後、彼に電話をして自分の居場所を教え、ニュースをFeedしてもらい、ユナイテッド機がペンシルバニアで墜落したことを知る。ワタシは、これから5番街を上がって、取り合えずどこかで一息つけるところを探すといい、また連絡するから、NJ行きの臨時バスが出るという噂を耳にしたからバスターミナルへ行ってみるかもしれないと告げて切った。

どこの教会だったかイマイチ覚えていないが、トイレを借りにいった。教会では祈りをささげる人がパラパラといた。最初、何故かトイレを貸すのは断っていた様子。が、ワールドトレードセンターから逃げてきて、歩きっぱなしであると言うと鍵付きのトイレにつれて行ってくれた。

スタバでもナンでもいいから、カフェインが摂取したかった。でも、チェーン店展開している飲食店は皆閉店した後だったようで、諦めるしかなかった。マクドナルドやバーガーキングといった店は大繁盛で、皆、ランチを買ってた。(それぐらいMidtown周辺にくると、ダウンタウンの喧騒など伝わっていない、ちょっとしたお祭り状態、嵐の前の早い下校を待つような、そいう空気に包まれていたのです。)

31丁目まできて、あ、これはエンパイアの裾じゃないか、ここも危ないと思い、左折。マジソンスクエアまで出たら、駅からシャットアウトされた人々でマジソンスクエアの周りは抜けられない状態。ここで何かあったら、パニックが凄くなるから離れなくちゃと思い、1ブロック南に戻る形で6番街に出て、33丁目付近まで上がり、PATHが動いているかどうか確かめた。だが案の定動いておらず、どうしようかな、と考え、やはりバスターミナル(PABT)へ行くことに。ふと見るとMacy’sが開いていて、中を突っ切ったほうが人ごみが少ないと思い、店内へ。驚くことに、従業員はまだ接客をしていて、外国人観光客が買い物をしたり、お化粧をしてもらったりしていた。そんな光景を横目に、どんどん7番街側の出口へ向かい、外へ出て8番街まで一気に北へ。8番街から東へ上がって行った。39丁目の辺だと思うが、角にジュースとホットドッグのお店があり(パパイヤなんちゃらって店で、非常に有名)、そこがラジオのニュースをガンガン流して居たので、ジュースとホットドッグを買って、立って食べながらニュースを聞くことに。

13:04 ブッシュのバークスデール空軍基地発のメッセージ

ブッシュの世界に向けたメッセージやジュリアーニのインタビューなどを聞き、益々同僚の安否が気になり、涙が止まらず。ホットドッグを食べながら泣いている日本人は、さぞかし変に見えたに違いない。でも、そんなこと、ワタシにはどうでも良かった。

食べ終わってからマネージャーのJMの自宅へ連絡。これからPABTに向かうことを告げ、その後また連絡すると言って電話を切った。

余談ですが、ミッドタウンに入ってからというもの、携帯電話は比較的よく繋がる様になっていました。ワタシはN社のプラン、電話を使っているのですが、アメリカ3大携帯会社の電話は繋がらない人がかなりいたようで、何人もの人にどこの電話か聞かれました。また、話している人の電話機を見ると、N社独特の電話機に向かって話していて、ああ、結構N社、やるな~と感心してしましました。

PABTへ行き、溢れんばかり人を目の当たりにし、40丁目の南東の角にある公衆電話の傍でどうしようか、次はナンだ?このまま待つのがいいのか、セントラルパークまで行くのがいいのか悩んでいる時、誰かにmamikoとワタシの名前を呼ばれる。呼ばれる方を見ると同僚2人が公衆電話に並んでいた。こんな人ごみで2人も同僚に会えるなんて夢にも思ってなかったので、泣いて抱き合って喜んだ。

同僚の一人は、ワタシより一本早いPATHでワートレに到着し、One Worldから火が噴出すところを見て、そしてワタシと同様にTwo Worldの爆音と共に逃げ出したMさん。彼女はワタシと逆にChurch Street近辺にいたらしく、そのまま東へ逃げたようです。そしてPATHが動いているのでは?と思って14丁目まで歩きつづけ、6番街と14丁目のPATH駅に行ったところで、J子にばったり会ったということでした。

J子は、この日は寝坊し、20分ぐらい遅れるとワタシの電話にメッセージを入れてからPATHに乗ったところ、Newarkを8:50頃に出て2つ目の駅、Journal Sq.で止まったそうで、電車では特に何があったかは詳しく案内がなく、ワートレで事故があったのでマンハッタンへは33丁目方面の電車を利用するようにというアナウンスだけを聞かされたということでした。結局、J子さんの乗り換えた電車は9丁目の駅でストップ、9丁目の駅を出たところでワートレに飛行機が激突して炎上している話を傍にいた人に教えられ、ビルの方角をみたら灰色の煙が空に広がっているところに出くわし、彼女はここでご主人に電話をし、会社には行けない、取り合えず逃げることを告げたとのこ。時間はどれぐらいだったか、記憶にないようでした。そして、J子は暫らくその辺に居たのか、どこか他へいったのか確認していないが、とにかくPATHがもう動いているかもしれないと考え14丁目の駅に向き合ってもう一人の同僚にばったり会ったそうです。

ワタシは、電話でマネージャーと話をしたことを2人に告げ、関連会社のオフィスが5番街にあり、そこに仮設対策本部を設けること、そこにマネージャー二人が行くことになっていること、そこの方がPABTよりもTimes Sq周辺よりも幾分安全だろうというという理由から、そっちに行くことにしようと提案。電話番号案内で関連会社の電話を調べ、連絡を入れ我々が向かうことを告げ、住所を確認。

ゆかりちゃんから国際電話が携帯に入る。元気がでる。飛行機の音がしたので、Times Sqから離れたいから電話を切るよと入って受話器を閉じる。

42丁目と5番街にあるオフィスに到着し、ドアマンにワートレの中にある(あった)関連会社の者で、こちらに集合することになっていると言うと、大変でしたねと労いの言葉を頂戴してぐっときてしまう。

このときもそうなのだが、J子が終始不謹慎というか、イマイチ状況を理解していないのか、なんなのか分からないが、ヘラヘラしっぱなし、ニコニコしたままなのが異常に気持ち悪く、益々、彼女の神経を疑った。こんなときに、自分のスポーツクラブの会員証が燃えた、燃えない、などと言うものだから、思わず、そんなものいいじゃん、命が助かったんだから、ときつく言ってしまった。でも勿論彼女は、ヘラヘラしながらそうだねー、でも他のクラブに移管してもらえるかな?と続けるもんだから、思わず閉口。

オフィスに入ると、関連会社の社長とそのアシスタントが迎えてくれ、会議室に通される。そこにはDuckeeが来ていて、日本の本社と生存者の確認作業が思う様に取れない状態だった。我々3人が入ってきて、確認のとれない人リストの中に含まれていたはずのMが目の前にいるので、即リストから名前を落とし、一端東京との電話を切り、どの程度我々が他の社員の状況を知っているかどうかを付き合せ、確認作業を続ける。ここで友達が無事にオフィスから脱出したことを知らされ、そのとき5人の社員んがオフィスにいて、4人は脱出をいっしょにしたが、一人が行方不明であることが分かっていると聞かされる。

それから数10分後にチェルシア近辺に住むJ子の上司のJMがやってきて、無事を喜び合い、Duckeeにした報告を英語でもう一度報告。

このオフィスにはテレビもラジオなく、インターネットだけが情報源という場所だったので、早速インターネットを拝借し、CNNなど主用ニュースソースを片っ端から見て情報収集。あまりに凄い映像なので絶句してしまい、もしも数分激突が遅かったら、絶対自分たちがエレベータに乗っていただろう、そして死んでいただろうということが頭を過り、手が震えてきた。

一番連絡がとりたかった同僚と電話が繋がった。某N新聞社に今いるということだった。

3時半ぐらいだったろうか?Hoboken, NJ行くフェリーが動いているという情報をキャッチし、12番街と39丁目のフェリー乗り場へ移動することになる。丁度、クロスタウンのバスが動き出していて、バス停にJM、Duckee、そして我々3名で立っていたら乗合バスが入ってきたのでそれに乗車。11番街で道路が渋滞していて先に進めなかったので1ブロック歩いて39丁目のフェリー乗り場へ。到着したら、4時間待ちの列ができていて、誰が横は入りしただの何だのと喧嘩している人が多数。その仲裁に忙しい警官。30分程並ぶが、23丁目のフェリー乗り場からWeehawken行きが出ているという話をキャッチ、市が用意した39丁目から23丁目に移動するバスに飛び乗り移動。

23丁目に着くと、39丁目ほどの混雑でもなく、続々とプライベートなフェリーや観光用フェリーが入ってくるところだった。子持ちのMは、ご主人もブルックリンにTrap状態だったため、とにかく子供を迎えにいかなくてはいけないと、自ら列を横入り(!)して、すぐにフェリーに乗ってしまった。ワタシとJ子は1時間半ほどまってフェリーに乗った。

Weahawkenのハーバーは、多方面からやってきたフェリーでごった返していて、すぐに下船できず、暫らく船内にいた。下船許可が下りたので、下りてハーバーの入り口に移動。入り口前にはペイン・ウェッバー社の社員用のチャーターバスが2台どーんと並んでいたほか(これほど準備の良い会社は、ココ以外なかったです)、NJ市側がチャーターしたバスがちらほら到着していた。そのバスの量に対して不釣合いなほどの大人数がハーバー前に列をなしていた。目算で1時間半から二時間待ちといったところか。

とりあえず、大通りに出て車で迎えに来てもらえる状況下どうか見に行こうとJ子に提案。彼女もOKというので、バスと人ごみを後にして一般車両立ち入り禁止のエリアを出たところのガススタンドまで移動。電話で彼に連絡してここまで来れそうかトライしてもらう。彼を待つ間、芝生に座りサンドイッチを食べた。非常に不味かったが、緊張感の連続と歩き疲れ、立ち疲れでもう限界に近かったから嫌でも食べなくちゃと思ったし、美味しくないサンドイッチからすらも自分が生きている実感を満たされ、涙が出てきた。

電話が鳴った。Weahawken、Hoboken方面に入るハイウェイ、トンネルに通じる道路という道路が閉鎖されていて、こちらには来られないと彼。そこで、Hobokenに出てバスなり電車なりを捕まえて、Hobokenより西の町に移動するから、自宅に戻って次ぎの連絡をまってくれと頼む。この電話の後、携帯のバッテリーが完全に消耗され、OUTになった。

ハーバーまで戻り、バスに乗ってHobokenに行くことを提案(そう、提案するのはいつもワタシ)。5分ほど先ほど来た道を戻る。ボランティアの人が水を配っていたので頂く。バスが丁度入ってきて乗ることができた。

8:30 ブッシュのメッセージ 
“These acts shatter steel, but they cannot dent the steel of American resolve”

ラジオがバスの中で聞けた。丁度ブッシュのメッセージを流していた。ワタシが聞き入っているのにも関わらず、隣のJ子はやれ後ろのオヤジが腋臭が匂うだの、会社はお給料を払ってくれるのかとか、ブツブツ言いっぱなし。無視してラジオを聞きつづける。ラジオのアナウンサーが、以上はクリントン…ブッシュ大統領のお話でした、と言ったので社内に笑いが広がる。列を挟んで隣に座っていた女性がずっと泣いていたのだが、さすがにこの時は笑っていた。

15分ほどかけてゆっくりとHobokenへ入っていった。窓から見えたレストランでは、スーツを着たビジネスマン達がワインを片手にイタリアンを食べていた。ハーバーでもレストランで食事をしている人が沢山いた。別に、食事しててもいい。それは本人の自由だ。でも、そのすぐ傍を避難してきた人が通ったり、泣いている人が通ったりしてるのに、何も感じないのかな?と思うと益々このニューヨーク気質というのが理解できなくなる。

Hobokenの駅前のバス乗り場は、NJの救援基地が設置され、ボランティア活動が既に始まり、医者や看護婦もマンハッタンから呼ばれ次第、すぐ動ける様に待機していた。ボランティアの人達が、NJ Transitの電車、バス、地下鉄のPATH、全てNJ方面へは平常に動いていることを大きな声で繰り返し叫んでいた。我々は通勤に使うPATHでNewarkに出るのがベストだと思い、地下鉄へ。

車中、頭の中は朝から順繰りに起こったことを思い起こし、うまく表現ができないのだが、何ともいえない空っぽな感覚に襲われながら、電車はいつのまにかNewarkへ。

そんなワタシを横にして、J子は実は10月にバケーションをとってるんだけど、行くのやめてキャンセルしたほうがいいかしら?でもそうすると一泊分ペナルティを取られるし…どう思う?とか聞いてきた。もう、返事する気にもならなかったので、いいんじゃない、行けば、と応えてしまう。

Newarkの駅は、EWR近辺のホテルに入れなかった客が、Newark周辺の町にあるホテルを求めて、またはアムトラックでの移動に切りかえようとマンハッタンほどではないにしろワサワサと行き交っていた。J子さんと別れた後、公衆電話から自宅へ連絡。回線が麻痺しているのか、3度トライして3度目に繋がり、近所の駅で20分後に待ち合わせした。いつもの公園の駅で、いつもの場所で彼の車を待つ。車の中に彼の頭と犬の頭が見えたときは、感無量だった。

自宅には夜の9時半頃に到着。心配してくれた家族、友人、知人に電話やメールをし、二時過ぎまで起きていた。寝ようと思うのだけど、すぐ起きてしまう。体は疲れているのだが、思考がまったく眠らない状態。それでも、自分の家の自分のベッドに寝ていることだけで幸せで、例えこのまま一晩中まぶたを閉じることがなくとも、十分なような気がした。

心配をして連絡をくれた方、ワタシやワタシの家族を気遣って、彼やワタシの母と連絡をとってくれた方、友人同士で情報を流し合ってくれた方、携帯にメッセージを送ってくれた方、本当にどうもありがとう。正直言って、こんなに沢山の人々に心配してもらえるなんて夢にも思ってなかった。ワタシは、本当に恵まれている。

もしもあなた達が、ワタシと同じような危機にさらされたらなら、何も考えずに手を差し伸べられるような、あなた達のような人間に自分もなりたいし、そういう友達でいられたなら本望だと思う。

feel.write.read by Mamiko Taira