大らかでありたい

このごろ、価値観っていうんだろうか、
そゆものを考えさせられる、そんな機会に多々出くわす。
これも恵みの一つなんだろうな、などと思ったりもする。
(と、ちょっとだけ、いい子ぶって。)

一生持ち続ける価値観みたいなものもあれば、
人生の、節目、区切りに沿って、生まれる価値観、
役目を終えて消えていく価値観、そんなものもあるだろう。
なんというか、意外に流動的というか、季節的というか。

その時の自分のココロに沿った、信じられるもの、
そんなものが形を変えて、価値観なんていう名札をぶら下げて、
転校生が教室に入ってくるように、自分の中に入ってくる。
そんなイメージ。

なんだかんだ言って、日本で生活した年月よりも
ここ、アメリカで生活した年月が、少しだけ多くなった。
楽しいことも、嬉しいことも、悲しいことも、辛いことも、
出会いも別れも、どっちの国に居るときにも潜り抜けてきた。

そういう人生の機微に触れる度、
気負いというものが自分から徐々に抜けていく。
一枚、二枚と剥がすような。


    日本人だから
    一人っ子だから
    女だから
    ボーカルだから
    音楽やってるから
    二足わらじ履いてるから
    ニューヨークに居るから
    ジャズやってるから



色々あるんだろうけれども、
どれも否定できない。
絶対に、自分の中にあったと思う。

完全に消えたわけではないが、
随分と自分がシンプルになりつつあるな、と思えるのは
実はすごく幸せなのかもしれない。
今は、だから、の後に括弧して、「だから?」を入れてバランスをとる。


日本人だから。(だから?)



だから

だから?

で打ち消されて、

日本人

が残る。

そうです。
単に日本人というだけでいいんだと思います。


何が言いたいんだよ、お前は?

多分、ですけれども、

大らかでありたい

って言えば早かったのかもしれないです。