12年の歳月

今日のNYは久しぶりに暑く、秋分の日を迎えるまでは
まだ暦の上では夏なんだよと言わんばかりです。

あの日は、もう少しカラッと湿度は低めで
日の光は確実に秋を感じる朝でした。
12年。
時の経つのは早いものです。

最初の数年は、テレビで追悼番組やドキュメンタリーを見る度に
自分は死んでいたかもしれないんだと、考えたことはありました。
でも、いつの日か、そういう考え方は捨てようって思いました。
なぜなら、ワタシは生きているからです。

「◯◯だったかもしれない」という仮定は
実際には起こらなかったことであり、
当たり前ながら起こらなかった以上、
その「だったかもしれない」ことは
今にも、過去にも存在しないわけです。
存在していないことに縛られていては、
そこからは「◯◯にならなくて良かったね」という
起こらなかったことの肯定以外に何も生まれて来ないな、と。
多分、そういう仮定の世界に紐づく
怯える心を切り離す事が、ある日を境にできたんだと思います。

自分は生きていた、
今、自分は生き(かされ)ている、
これからも生きていこう、
っていう事実を受け止めて、感謝することの方が大切なような気がするし、
その方が、あの日に逝ってしまった人々へ
敬意というか、誠意ある、前向きな姿勢として示せるような気がするのです。

◯◯になっていたかもと思うとぞっとする、
っていう向き合い方というか、事の把握の仕方は確かにあります。
ただワタシは周り方々と
そういう向き合い方ではあの日を共有しないことにした、
ワタシの小さな選択だと思います。

そんな小さな選択を書き記すのも、
やはり、どんな次元に在ったにせよ
あの日を知る者として
あの日の話をし忘れてはいけないから、
だと思うのです。

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