updated (7/21/2022) HPの引越に伴って、nine one oneの記事をブログに移すことにした。記念に、HTMLでHPを作っていた時の名残として、そしてあの日の感じをどこかに漂わせたかったから、スクショを撮ってみた。この記事は、色々な意味での人生の分岐点のようなもので、やっぱり忘れてはいけない、覚えておかなくてはいけないことだと思っている。 いつも読んで下さっている日記のページからリンクをクリックして訪れてくださった皆様へ feel.write.readから2001年9月13日に書いた部分を独立させておくことにしました。これがワタシの2001年9月11日、同時多発テロのあったあの日です。 この日の日記を独立させた理由を正直に言いますと、明らかにこの経験を通して、ワタシの中で何かが変わり、その変動、強いシフトに自分が押されているような、そんな心境に現在あります。その見えない力の源を自分なりに意識するため、自分の立ち位置を意識するため、もう一度読んでみようと。 今日は、2002年3月2日(土)、時刻は夜中の12時を回ったところです。明日のワタシに何が起こるか、半年後のワタシがどうなっているか全くわかりませんが、どうなっていても、ここに終わりではなく、なんだかの新たな始まりがあることを刻んでおきたい、と思いました。 サーチエンジン等で偶然見つけて訪れてくださった皆さまへ はじめまして。麻美子です。ここの書かれているあの日の話は、ワタシの日記の中からの抜粋になります。つまりは、あの日を体験した人々の全体の何千人分、何万人分の一であるワタシの11日です。極めて私的に書かれている文章なので、登場してくる人にぴんとこないこともあると思います。ごめんなさい。でも、フィクションではないということを由として読んでいただけるのなら有り難いです。 麻美子より。 ==================================== 長い一日 ワタシはいつも通り家を出て、NewarkからPATHに乗って職場のあるワールド・トレード・センターまで。電車の中では何も変わったこともなく、頭の中ではオフィスに入る前にバナリパでディパックを買おう、なんて考えていて、色は何いろにしようとか、そういう他愛のないことでいっぱいだった。 8:45 ハイジャックされたアメリカン航空11便がNorth Towerへ衝突 8:50前にワールド・トレード・センターに到着。コンコースB2レベルのホームに降り立った時、ふと変だとは思ったのだが、何がどう変なのかが把握できなかった為、いつも通り階段を上ってコンコースB1レベルに出た。構内に、自分たちの乗ってきた電車の乗客しかいないことに気がつき、ん?金曜日じゃないのに空いてるな、今日って祝日かな?と思いながら改札を抜けると、背後から駅員の声がして急いでエスカレーターを上れ、上ったら外に出ろと指示が。歩きながら半信半疑でエスカレータを上って行き1Fレベルに出た。一番直ぐ傍の出口へ(ワートレ地下の辺に明るい方へ:Coachが角にある通路)向かう途中、ぱっとOne World(North Tower)の方を見ると煙がいっぱい立ちこめていて、コンコースにあるお店というお店が閉まって無人と化してた。ワタシの乗った電車がワートレに入ってきた最後の電車だったとわかったのはこの時点。 地上に出てから、やたらと書類やら何やら紙が舞っているのを見て、上を見上げることに一瞬躊躇したものの、やはり見上げた。火が噴いてた。丁度自分のオフィスのある79階当りだ。移動して、近くの小さな公園(リバティー・パーク)に居る人々の中に混じり、携帯でサンフランに出張中のボスやマンハッタン内の駐在員、自宅など片っ端から電話をかけてみる。全く繋がらない。 9:03 ユナイテッド175便がTwo Worldに激突、炎上 暫らくして爆音がし、Two World(South Tower)の中ほどから上が炎上。爆音を背に、とにかく南に逃げよう、逃げなくちゃ、この場に居てはいけないと公園の横の道を南に走った。同じように逃げ出す人は沢山いたが、ワートレ界隈の小さいビルに仕事場があると思われる人達のなかには、まだ火事見物を続けている人がかなりの数いた。 灰なのか、ビルの破片なのか分からない、丸い小さな石のようなものが髪に、洋服に纏わりついてきた。紙の燃え滓なども混じっていて、吸い込んだらよくないと思い、タオルを口に当てることに。South Street Seaportまで辿りつき、ベンチに座って携帯で家に連絡をつけようと必死で掛け捲ったが、やはり繋がらない。他の人も繋がらないようでイライラしていた。 9:26に自宅に電話が繋がった。だが生憎留守電になっていたので、自分は無事であること、これから暫らく電話の連絡はできないかもしれないから、でも心配しないように、ラインがまったく繋がらないのでワタシから次に連絡を入れるまで携帯に連絡いれないように、と残して切る(後から分かったのだが、丁度このときに実家から電話が入り、ワートレが大変なことになっていると彼が知った時で、テレビの映像のリプレイを見てヒステリカルな状態になっていたらしい)。 そのまま30分程、Seaportで携帯で連絡を方々に取る努力をした。10分に1回ぐらいの割合でしか繋がらず、彼を含めて3人連絡をとるのが精一杯。一番連絡をとりたい、絶対にあの時間社内に居ただろう同僚には、勿論繋がらないし、他の会社に勤める友達にも繋がらない。その間、なんでSeaportのフェリーを出さないのかと抗議する人や、イマイチ状況が分かっていない人が冗談などを言い合う光景など様々で、不思議な気持ちになる。10時ぐらいだったろうか。誰かがTwo Worldを指差し、崩れるぞ、ここは危険だと声をかけ、丁度やってきた警官にSouth Seaportから離れるように、South Streetを東に上るように指示され、集団避難が始まる。 10:05 Two Wordが崩れる 避難する輪から離れてはいけないし、止まってもいけないと思い、黙々と歩き続ける。数分後にインド人の若者がワタシを追い越して歩いていった。彼の耳から後ろ半分の体に煤がいっぱいで、爆風にさらされたのが分かった。きっと南に向かって逃げているときにビルが崩れたに違いない。後ろから走ってくる車にも煤がいっぱい被さっていて、事の深刻さに更なる現実味を加える。 South StreetはFDRの下に位置し、Brooklyn Bridgeの下も通る道。ワタシは、もし次ぎにアタックがあったら、橋が標的になる可能性は高いから、早く橋やハイウェイの下から出たい、出たい、出たい、とココロで繰り返して、歩きつづけた。Two … Continue reading 長い一日
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